2011年10月30日日曜日

自分をイデオロギーの小さな枠に押し込めて自らを不自由にする


yamakata

〜反原発派は自分たちの論理の根っこが無茶苦茶だということを反省して欲しい。しないだろうが〜
という意見を聞きました。
しかし、この発言者もまったく同じ無茶なのではないかと僕には思えます

論理には必ず前提となる「公理」があります。
〜公理(こうり、Axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。〜Wikipedia
専門家ではないのでおおよその当たり前のことしか言えませんが、
そもそもの一番大事な部分についてすっとばして議論をしてもすれちがうばかりです。自然科学が発達したのは、公理を厳密に定義したことによるところが非常に大きいと思います。ただし、あくまでそれは、「仮定」であり、絶対的に正しいかどうかは未知です。

アプリオリなものは存在しない。

この認識がないことは非常に大きな問題ですね。
釈迦が2000年以上前に悟ったことから、私たちはまだまだ遠いところにいる。というか反対方向を見ているように思えてなりません。

原発推進派も反対派も前提としていることがらが実は非常に危ういものだということを認識しなくてはいけない。

議論をするには、互いの、できれば人類にとっての共通項をくくり出す、まさに因数分解の基本ですね。
共通の前提として認められることがらを定義しないことには議論がすれちがうことは必至です。
ちがうところに注目して一々反論する姿勢は対立を深めるだけ。
共通項、互いに共感できるものを見つけ、それについて議論を広げていく、通常おこなわれているのとは正反対のアプローチが必要なのではないでしょうか。

共通項として考えられるのは、人間として生まれながらに備わっている欲求、倫理。そうした根源的なことがらから出発して初めて真の対話が始まり、共感ベースの建設的、創造的な議論が活発化するものと思います。

まだまだ人類は自分をイデオロギーの小さな枠に押し込めて自らを不自由にしてしまっている、そう感じます。いい加減、イデオロギー闘争なんて卒業しましょうよ、と言いたい。



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