2011年10月30日日曜日

無関心と「正論」は、同じムラの住人ではないか?

watanabe

無関心とは、変化を嫌う、いいかえれば、矛盾した状態を嫌うということでしょうか。

非被災地の人間は、秩序の中で、安心して、
レトリックを最大限に振りかざして悦にいる。
こういう側面は否めない、目の前に危機がないのだから。
無論、私もそうだ。

その中での議論、意見は、権威を笠に着ていればばなおさら、
それは影響力を持ち、ヒトはなかなか疑う術をもたない。

放射線のたずさわる技師が、「移住すべきだ、福島の野菜は一切とるべきでない」という。

もう、涙がでそうなくらい、もっともだ、これ以上ないくらい正論だ。

広大な土地があるわけでもなく、補償金額もまかなえず、戸別の食料の検体を
ひとつひとつ測る経済的余裕もない。

その矛盾の中、、こどもでもできる「正論吐く」ならば、
じゃあ、どうすればいいのかを、「対案」を示すべきである。

どんなに専門家だろうと、自分の感情が受け入れなければ、
その存在の全体を、そして詳細を受け入れようとしない、
キレイ好き、見てみぬふり
放射線による実害、そして風評もあるなか、TPPへの加入。
そして「除染実施」と「住民帰還」、そして郡山などでのこどもの集団疎開の訴訟、


 矛盾は、受け入れ、第三の道をゆかねばならない。と思います。

「言葉は、人を生かしも殺しもする」 このひとつひとつの言葉の力こそ、
正負のエネルギーがこもっている。

データをもとに、ワラントを組み立て、そして、人々に語る「言葉」を
丁寧に、取り扱わなければならない。 

まがいの言葉に自ら幻惑し、そして、他者を幻惑したものは、
過日に災いをもたらすとおもいます。


下記は、宮古市に合併した旧田老町役場の前に立つ石碑です。
過去の津波災害から立ち直って、「生まれ変わった」田老町を誇らしげに称えるもの。

皮肉にも、人間の力で「繰り返さない」と誓ってもその7年後に、災禍が襲う。
「あのとき、こうしておけば良かった」

これを矛盾のさなか、無関心にならず、考えなくてはならない。






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