2011年10月30日日曜日

討論の目的は何か?

yamakata

とにかく自然に多くの人がそうしたくなる、こっちの水は甘いぞ、楽しいぞ、幸せだぞ、という需要を創造することが必要と思います

今までそれは権力サイドによる非常に巧妙な高度に計算され尽くしたプロパガンダによって行われてきました。
つまり、大衆の心理を思い通りに操ってきた、と。
大衆自らが欲するように仕向けてきたわけですね。
多数が望めばそれで十分。おかしいぞ、と声を上げる人がいても、
それは少数派で力を持ち得ない。

彼らは大衆を説得したのではなく、それと気付かぬうちに教育、洗脳してきたということですよね。

私たちの思考はインプットに対する反応によって起こる以上、完全に自由な思考はあり得ない、とまず考えなくちゃいけない。
そして、インプットする情報を恣意的に操作することで思考の条件付けを行える。完全なコントロールは難しいが、マスコントロールは可能ということ。

この大前提を認識、意識した上で討論がなされなくてはいけない。
自分では自由に思考していると思っているかもしれないけれども、実はすべて条件づけられているのだ、と。

それでもやはり自由に思考したい。少しでも自由な思考に近づきたい。そのときに釈迦が悟ったように大きな何かを得られるのだろうし、創造性も無限に湧いてくるのではないかと思う。

討論の目的は何か?
僕なりの答えが少しずつ見えてきた気がします。
今のところ感じていることは、
「討論を通して思考の自由度を上げていく、真に自由な思考に近づく」こと。
相手を説き伏せる、言い負かすのではなく、すべてを包含する思考、抽象度の高い、だからこそ具体的な個々の事例にすっと適用できる、そうした自由度の高い、柔らかい、大きな思考ができるようになること。

やはり西洋的な思考と東洋的な思考を包含するような(どちらかと言えば非常に東洋的ですが)思考を得ること。


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