2011年11月28日月曜日

道の駅「ふくしま東和」 ~福島県二本松市

昨日、20111127日(sun


NPO法人ゆうきの里ふるさとづくり協議会(福島県二本松市)の設立フォーラムが郡山市内の福島農業総合センターで開催されました。
平成17年、12の農業団体が統合。ニュース動画
3.11以後の風評を踏まえ、土壌改良、品種改良をもとに、
TPPなどの国際的な新自由主義農業の流れとは、確実に一線を画す、
地域農業コミュニティのための「美味しさ」「安全」を追究する意思を
様々の媒体で私は事前に知った。

バスで二本松から約40分、宮の平バス停から、約2km
その間、農村地帯は、一面雪化粧ならぬ、霜が降りて、朝日にキラキラ反射する、清澄な場所であった。




目的は、2つ。

1、 このNPOが主導で進める道の駅「ふくしま東和」の訪問
2、 上記フォーラムへの参加
即ち、現場の生の声、風景、これを感覚的につかむことです。詳細は後日Up(日、英)にてご報告致します。


福島有機ネットワーク代表 菅野正寿氏の開会の辞

















2011年11月26日土曜日

Title & Links

Colums



渡辺 信太郎

福島県双葉町 双葉バラ園 園主ご講演
福島産の蚕種と養蚕技術なくして、明治維新なし
「討論すべきは何か? 除染そして農業再生」
ヨーロッパの原子力発電所
環境省 放射性物質汚染対処特措法 って大丈夫なの?
TPPという商物分離を、「理屈」抜きで見極められるか? -識見のある国の条件
原発事故調査委員会 は、「検証無き国家」の前例を覆す?
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
祖先からのアドヴァイス~昭和天皇の言葉にこめられているもの
福島の野菜について考える 2  「土地を支える農家」そして「農家をささえる市民」
無関心と「正論」は、同じムラの住人ではないか?
福島市民の声「何もわからない、今の体内の積算内部被爆量すらわからない」
女川町コンテナハウス 花屋さん
*宮城県女川町そして石巻市の花屋さんを訪ねて


山片重信
遠い先への一歩~デュッセルドルフ市 fiftyfiftyとの試み No.2      
遠い先への一歩~デュッセルドルフ市 fiftyfiftyとの試み No.1
*論理を語るなら、まず前提を語らねば
自分をイデオロギーの小さな枠に押し込めて自らを不自由にする
日本人の本質
島の野菜について考える 1
同じ空間にいながらちがう世界に住んでいる
討論の目的は何か? 

英 利秋
2つの日本~福島県須賀川市の友人への訪問



Topics

「有機農産物」と「表示」問題
NPO法人ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会

<地域>

<国・行政>

農地土壌の放射性物質除去技術(除染技術)について
耕作放棄地の現状について平成233月農水省
農地転用許可制度(知事・国の許可が必要:農地を別利用目的に変更するには)
耕作放棄地再生利用緊急対策
農業者個別所得補償制度
農林水産省委託 FOOD ACTION NIPPON 推進本部事務局 HP



a BLOOMING BUSINESS / Where do flowers come from?



a BLOOMING BUSINESS - documentary film trailer 2010
Our another side of the world.
Beautifulness and goods through the global business sometimes have the conflicts people must face.
We`ve already known that after 3.11 ?


Roots ~ Where do flowers come from?




Watanabe
same thigs to our body after TPP ?
The superficial part of the world make them easily to feel happiness in egoistic sense like animal.
People believe the things they want to believe that`s so rhetoric, journalistic, and pitiful.
Yamakata
This is our World...same thing occurs everywhere, while we don't know anything about what we are doing.
We may harm others too much. What is this economic world? crazy? or evil?

Das ist unsere Welt...Die Gleiche passiert immer wieder, während wir kein darauf achten, wissen...wir wissen nicht was wir gerade tun.
Vielleicht verletzten oder töten wir jemanden jeden tag?
Was ist diese Wirtschaft? total verrückt...oder ziemlich böse...



福島産の果物~ 放射能が怖い? じゃあ輸入物のポストハーベスト農薬は?

親戚からの贈り物。 
会津美里町のりんご(ふじ)
福島県会津美里町のリンゴ、放射能も少ない場所ですが、
このPRのように、手間隙とコストは例年以上かかっている。
しかし高くは売ることはできないでしょう。どんなに出来がよく、美味しくとも
それに他県産に顧客を取られてしまってはと、来年以降だって、
農家の方々の不安は続くでしょう、

りんご
200-250gくらい×4つ  これで1kg 不検出(ND)
一冬に何kgも、そして福島産ばかり食べるわけではない、
しかも私は20代じゃないですし。
蜜がしっかりあり、美味しくいただきました。
会津若松市から西に5km
この微量食べるのに、年間の積載被爆量?
本当に測っているかどうか不安?

びくびくするのも、しないのも 、むろん、個人の裁量。
ただ原子力行政や東電を批判するのと、
補償も、移住もままならない福島農家を支えるのは、別次元の話。
くさいものに蓋をする、嫌気がさす、見て見ぬふりのように
後者への配慮を放棄していいってことではない気がします。

それに原発から100km以上、空間線量も毎時0.5マイクロSVもない。
それに、国内産だからポストハーベスト農薬もない。
そもそも移動距離が短いから、使う必要がない。


気持ちが伝わってきます。
原発から100km以上、空間線量も毎時0.5マイクロSVもない。

大きな地図で見る

目くじらをたてるのなら、忘れていないだろうか?
世間が騒ぐから、セシウムだけですか?

そもそも輸入物への食品添加物忘れてませんか?
検査が本当かどうかなんて、輸入の食料農産物を、水爆実験をしていた冷戦時代から
日本人は摂取している。
そして今だって、たくさんの輸入物がスーパーを彩ります。
普通に新鮮そう、そして美味しそうです。
その検査は「何もおきていないから」信用しているだけです。
目くじら立てて、ネットで調べないでしょう。
食べるも食べないも自由。
美味しそうなもの食べるときに、ふつうは理由なんて考えもしない。

何より安い、手軽。そして企業も大量に生産し消費してもらえれば儲かる。
お互いに「お得」ですね。

でも不思議ですね、長い船旅、いや飛行機に乗ってきているのに、、
なんでこんなに、隣町から来た、産直のように、
ツヤツヤ、光り輝いているのでしょう。とっても元気そう。

仕事で疲れたら、思わずこの元気そうな果物に何かを求めてしまう。。。

*ポストハーベスト農薬、これにはめくじらたてて調べないんでしょうか。
スーパーの店頭は、常に消費者のマインドの鏡だから、
多数がOKってことですよね。

美しさは罪?さて、どうでしょうか。

ポストハーベスト・・・防かび剤(殺菌剤)として厚生省認可されている食品添加物
イマザリル、OPP、TBZなど。

この3つ、twitterにかすりもしません・・・

ヨーロッパの原子力発電所


ドイツの有機栽培農家は反原発からスタートしたという。
リスク懸念が、次第に徹底していくのは、一度「安全」という概念ね目覚めたら人間は早い。

当団体の山片氏の在住するDusserdorfから一番近い原子力発電所は、
北東の ニーダーザクセン州 Emslandエムスラント原子力発電所(170万KW×1基)である。
また南西のベルギーのチアンジュ原子力発電所(約100万KW×3基)である。

福島の1~4号機がそれぞれ110万kw
女川が82.5万KW
日本最大の柏崎刈羽の、6・7号機が、それぞれ135.6万KWだから、
エムスラントの施設の規模がどれだけ大きいのかが判る。



<東欧>
そしてドイツの隣ポーランドも、EUの中でのフランスに次ぐ農業大国だが、
そのポーランド、東に位置するリトアニア共和国には日立GEが原発計画が進められているとのこと。

またイグナリナ原子力発電所は、2009年リトアニアのEU加盟と引き換えに廃炉がきまったそうだが、
廃炉をしっかりできているのか心配だ。何十年という時間をかけねばならない。
そしてその廃棄物は、数百年間、最終貯蔵地はどこなのか?


<北欧>
またスウェーデンのバーセベック原子力発電所(約80万KW)から
デンマークの首都コペンハーゲンまで、約20kmしかない。

デンマーク酪農団体が多く活動するユトランド半島でも200kmしかない。
本当に、福島原発とと東京の距離で、風向き一つでどうにでもなってしまう。

イギリスも10基以上海岸地帯にある。



非常に、今の経済の繁栄は、実は脆弱な安全体制、リスクマネジメント、
リスクが起きた時の被害の対応を顧慮していないのではないか、
ひとりの人間の一生の範囲内で生むことができる、経済効果を
人間は求めてきた、いや求めてしまう種なのだ、と認めるところから
始めなくてはならない。





2009年廃炉になった、チェルノブイリ型のリトアニア共和国のイグナリナ原子力発電所

福島産の蚕種と養蚕技術なくして、明治維新なし

福島産の蚕種と養蚕技術なくして、明治維新なし

但馬(兵庫県)の蚕種家の上垣守国は、1771年、福島(奥州)を訪問し、
福島産の蚕種と養蚕技術を研究して、1803年(享和3年)に「養蚕秘録」を編纂した。





その内容は、我が国の蚕業の起源、カイコの種類、蚕種の取扱、桑の栽培、蚕質、蚕具について
さらには、飼育法、蚕病、製糸方法を詳述しているという。

製糸技術水準は西欧に遅れてはいたが、蚕種そのものの、安全性、病気への強さは、日本種のものは
ヨーロッパ・アジアの種を圧倒していたという。

驚くべきは、この「養蚕秘録」をシーボルトがオランダに持ち帰り、オランダの農業先進大学のライデン大学の
J・ホフマンがフランス語訳したところから、かのパスツール博士もこれを読み、
フランス・イタリアの養蚕業に当時蔓延していた伝染病を克服する発見をしたという。

つまり、福島の技術が、世界の信義をかつて勝ち取っていたのだ。
Fukushimaという名前は知られなくても。

また明治時代初期の輸出品では、原料生糸が輸出額の50%近く、絹織物製品と合わせると60%もの産品により
日本は外貨を獲得し、国富をすすめ、優秀な海外の大砲・火器を買い求め、植民地にならず、
独立国となることができたのだ。

蚕なければ生糸なし、生糸なくして外貨なし、外貨なくして軍備なし、当時の植民地主義の時代、
なぜ日本が主権を保てたのか、データを辿れば、蚕産業に行きつくのである。






2011年11月14日月曜日

日本人にとって、人間は自然に一時、身を置かせてもらっている存在 ~フランスTV



人間は自然に一時、身を置かせてもらっている存在
日本では苦しみに苦しみを重ねては仕方ない。




これは紛れもない日本人の叡智だが、これに乗っかる日本人もいる。



2011年11月12日土曜日

原発事故調査委員会 は、「検証無き国家」の前例を覆す?

watanabe

第三者検証機関の設置は、官僚主導から、真の民主主義への布石になるか。

原発事故調査委員会の国会設置法

30日午前11時半過ぎ、参議院本会議で可決・成立した法案。

日本の重要な政策判断について、
今まで国会が一度も第三者機関で検証したことがなかったそうだ。

日経の10/30朝刊
「民間人による検証組織を国会に設けた前例はない」と評価。

原発事故を受けて独立した調査委員会の設置
⇒原発事故調査委員会

各党が賛成して、設置法の成立にこぎつけたのが9月末。
施行日は、国会召集から起算して10日を経過した日」つまり10月30日。
*専門家からなる民間委員
*参考人の招致
*国政調査権
検証にあたって事故当時に対応に携わった東京電力や政府の関係者を国会に参考人として呼ぶことができるなど、政府の調査委員会よりも強い権限がある

初めて、民主主義の代表である政府が、官僚主導ではなく、
「政治」主導に身を乗り出してくれた例であると述べております。

私は、意外に思いました。事故調査委なんかは、星の数ほどあると思っていましたが、
きちんと、
「行政府から独立した」「検証無き国家の前例を変える可能性を秘めている」
意味で評価できそうです。

「恐怖を世界にまき散らした責任、その検証を当時者の政府だけでにまかせて、
世界に対する責任が果たせるのか」

英さんの友人のいう、2つの日本、これは絶対に、行く末にはみたくないものです。
悲観しすぎながら、行動するとどうしても、「怒り」「悲壮感」が周囲にでてしまう。

国家行政をチェックするその「程度」がいままでで一番「大きい」のでしょう。
でないと民主党は次、選挙でのこれません。これだけ政治への関心、リタラシーが上がれば。

だから、これが真の日本の第一歩を踏み始めたと前向きにとらえましょう。

2011年10月31日月曜日

私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった





ドイツのルター派牧師であり反ナチス行動で知られる
マルティン・ニーメラーの詩。
Friedrich Gustav Emil Martin Niemöller



社会学者の上野千鶴子さんが、「脱原発社会を創る30人の提言」でふれられていた人物。

10年以上前、「the nightmare yearsBBCTVドラマがありました。
CBS記者としてドイツを取材したWilliam L. Shirer ウイリアム・シャイラーが、
情報操作で、国民を戦争に加担させていく、ナチスの政治的企み・陰謀を
ジャーナリストとして追究していく、という内容でした。

彼の著書Berlin Diary (1934-1941) ベルリン日記には、
ドイツが次々とナチ色に染まっていく様が詳細に渡って描かれています。

  私は、そのドラマでこの実在するニーメラー牧師の名前を知りました。

WIKIに独訳、英訳があり、そして以下のニーメラーの詩の意味するものを伝えています。

「自分には関係ない」と見て見ぬふりをしていたら、自分がいざそのターゲットとなったときには、
社会には声を上げることができる人は誰もいなくなっていた、というもの。

~~~

*日本語訳

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
私は共産主義者ではなかったから。

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。

彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はユダヤ人などではなかったから。

そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。


*English version


First they came for the communists, and I did not speak out,
(When the Nazis came for the communists, and I did not speak out,)
because I was not a communist;

Then they locked up the social democrats, and I did not speak out,
because I was not a social democrat;

Then they came for the trade unionists, and I did not speak out,
because I was not a trade unionist;

Then they came for the Jews, and I did not speak out,
because I was not a Jew;

When they came for me,
and there was no one left to speak out for me.




*Deutsche version

Als die Nazis die Kommunisten holten,
habe ich geschwiegen;
ich war ja kein Kommunist.

Als sie die Sozialdemokraten einsperrten,
habe ich geschwiegen;
ich war ja kein Sozialdemokrat.

Als sie die Gewerkschafter holten,
habe ich nicht protestiert;
ich war ja kein Gewerkschafter.

Als sie die Juden holten,
habe ich geschwiegen;
ich war ja kein Jude.

Als sie mich holten,
gab es keinen mehr, der protestieren konnte.

~~~
『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』ミルトン・マイヤー
『彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動』(田中浩・金井和子訳、未來社、1983年)や
『デモクラシーの冒険』([[姜尚中]][[テッサ・モーリス=スズキ]]、集英社、2004年)でも引用されている。






2011年10月30日日曜日

祖先からのアドヴァイス~昭和天皇の言葉にこめられているもの

watanabe


 昭和天皇の玉音放送の終末箇所に、
日本の歴史観、倫理観が、

現れているような気がします。
あくまで私の個人的に感ずることです。

「・・・・・もしそれ情の激するところ、みだりに事端をしげくし、
あるいは同胞排せい、互いに時局を乱り、ために大道を誤り、

信義を世界に失うがごときは、朕もっともこれを戒む。

よろしく挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、
任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、
道義を篤くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、
世界の進運におくれざらんことを期すべし。
汝臣民、それよく朕が意を体せよ 」


このような文面をものした君主は世界を見渡しても、
1000年の単位をとっても3人といないでしょう。
それくらいの絶対理性を、諦念と受容・気迫で支えています。

「フランスの人権宣言は、一世紀にも渡って哲学者たち、
深遠な思想家たちに議論されフランス人に受け入れられ、
風習にまでしみこんだ理性である。
その権利と義務は、人間倫理の保証者である「最高存在」を
よりどころとしている。」・・・フランス人作家ジュール・ミシュレが述べています。

この「最高存在」は、日本バージョンでいえば、
「万邦共栄の楽を共にするは、皇祖皇宗の遺範にして」といわれる陛下の信念に近いものと察します。

我々の祖霊の遺範こそ、
日本精神の瓦解を恐れ、追い込まれた人間・陛下がすがったものであり、
今の我々が頼るべきものであるともおもいます。

それを現実にどう用いるか、その手法は、おまえたちで
考えよ、ということなのでしょう。

これが、フクシマに対するに相応しい、
祖先からのアドヴァイスともおもいました。



無関心と「正論」は、同じムラの住人ではないか?

watanabe

無関心とは、変化を嫌う、いいかえれば、矛盾した状態を嫌うということでしょうか。

非被災地の人間は、秩序の中で、安心して、
レトリックを最大限に振りかざして悦にいる。
こういう側面は否めない、目の前に危機がないのだから。
無論、私もそうだ。

その中での議論、意見は、権威を笠に着ていればばなおさら、
それは影響力を持ち、ヒトはなかなか疑う術をもたない。

放射線のたずさわる技師が、「移住すべきだ、福島の野菜は一切とるべきでない」という。

もう、涙がでそうなくらい、もっともだ、これ以上ないくらい正論だ。

広大な土地があるわけでもなく、補償金額もまかなえず、戸別の食料の検体を
ひとつひとつ測る経済的余裕もない。

その矛盾の中、、こどもでもできる「正論吐く」ならば、
じゃあ、どうすればいいのかを、「対案」を示すべきである。

どんなに専門家だろうと、自分の感情が受け入れなければ、
その存在の全体を、そして詳細を受け入れようとしない、
キレイ好き、見てみぬふり
放射線による実害、そして風評もあるなか、TPPへの加入。
そして「除染実施」と「住民帰還」、そして郡山などでのこどもの集団疎開の訴訟、


 矛盾は、受け入れ、第三の道をゆかねばならない。と思います。

「言葉は、人を生かしも殺しもする」 このひとつひとつの言葉の力こそ、
正負のエネルギーがこもっている。

データをもとに、ワラントを組み立て、そして、人々に語る「言葉」を
丁寧に、取り扱わなければならない。 

まがいの言葉に自ら幻惑し、そして、他者を幻惑したものは、
過日に災いをもたらすとおもいます。


下記は、宮古市に合併した旧田老町役場の前に立つ石碑です。
過去の津波災害から立ち直って、「生まれ変わった」田老町を誇らしげに称えるもの。

皮肉にも、人間の力で「繰り返さない」と誓ってもその7年後に、災禍が襲う。
「あのとき、こうしておけば良かった」

これを矛盾のさなか、無関心にならず、考えなくてはならない。






自分をイデオロギーの小さな枠に押し込めて自らを不自由にする


yamakata

〜反原発派は自分たちの論理の根っこが無茶苦茶だということを反省して欲しい。しないだろうが〜
という意見を聞きました。
しかし、この発言者もまったく同じ無茶なのではないかと僕には思えます

論理には必ず前提となる「公理」があります。
〜公理(こうり、Axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。〜Wikipedia
専門家ではないのでおおよその当たり前のことしか言えませんが、
そもそもの一番大事な部分についてすっとばして議論をしてもすれちがうばかりです。自然科学が発達したのは、公理を厳密に定義したことによるところが非常に大きいと思います。ただし、あくまでそれは、「仮定」であり、絶対的に正しいかどうかは未知です。

アプリオリなものは存在しない。

この認識がないことは非常に大きな問題ですね。
釈迦が2000年以上前に悟ったことから、私たちはまだまだ遠いところにいる。というか反対方向を見ているように思えてなりません。

原発推進派も反対派も前提としていることがらが実は非常に危ういものだということを認識しなくてはいけない。

議論をするには、互いの、できれば人類にとっての共通項をくくり出す、まさに因数分解の基本ですね。
共通の前提として認められることがらを定義しないことには議論がすれちがうことは必至です。
ちがうところに注目して一々反論する姿勢は対立を深めるだけ。
共通項、互いに共感できるものを見つけ、それについて議論を広げていく、通常おこなわれているのとは正反対のアプローチが必要なのではないでしょうか。

共通項として考えられるのは、人間として生まれながらに備わっている欲求、倫理。そうした根源的なことがらから出発して初めて真の対話が始まり、共感ベースの建設的、創造的な議論が活発化するものと思います。

まだまだ人類は自分をイデオロギーの小さな枠に押し込めて自らを不自由にしてしまっている、そう感じます。いい加減、イデオロギー闘争なんて卒業しましょうよ、と言いたい。